2009年6月19日金曜日

映画は何の役に立つのか?

いつも“映画監督”としての仕事を、まったく仕事をするにはふさわしくない姿勢で取り組んでいるように思う。

“撮影”ということそのものに対する純粋な思い入れと、“映画で世界を変えることなんでできないし、誰かの考え方を変えることも、生きるのを楽にすることもできない”という苛立ちが組み合わさる。 
そして私の中で“映画なんてなんの役にも立ちやしない”と確信に変わる。

でも、これは間違いだったよう。ほかの多くのことと同じように。 つい最近、映画を通して

私たちに日々起こっていること理解すること、
分厚いレンガで作られた日常生活をを砕くこと、
そして生きていくことをすこし楽にすること
癒すこと、

ができるという手ごたえのある証拠をやっと手に入れた。

ちょうど一週間前、“Mi Vida sin Mi(邦題:死ぬまでにしたい10のこと)”、を観たという17歳くらいの女の子が私に近づいてきた。 彼女は泣きはらした様子もなく、私のまなざしに物怖じもぜず、ただ私の手を強く握って、いった。“この映画を作ってくれてありがとう。数年前になくなった父の沈黙の意味が、この映画でやっとわかった。 この2年間、父が病気のことを話さなかったことをずっと責めてきた。だけど、やっと彼の気持ちがわかった。映画を通して、彼の痛みを感じ、生きることかできた。まるで彼が私に”これでやっとわかってもらえたかな?“って話かけているみたいに。



彼女を見つめながら、言葉がでてこなかった。彼女を思わず抱きしめたい気持ちになったけれど、恥ずかしさが先にたってしまって、できなかった。お礼をいう間もなく、彼女はいってしまった。ほんとうはそうしたかったのだれど。

この少女

この映画をみてから、“人を感動させるため、心の琴線に触れるために”映画監督になると決めた“という手紙をくれたをビコ地方の少年、

この映画を見終わったあと”流した涙をおぎなうため“1.5リットルのミネラルウォーターを飲んだという婦人、

主人公ののアンが二人の人を同時に愛せるのが理解できない、といったボーイフレンドと映画を見た後別かれてしまった少女
(きっと彼は私のことを恨んでいるに違いない・・・) 、


私の映画は“鎮静剤”ではないといった私の友人 、

大切なことを先延ばしにしてはいけないという思いに駆られ、撮影直後に幼馴染のガールフレンドに電話をかけに走ったベルリンのジャーナリスト 、

映画館の前でシカゴをみるか“Mi Vida sin Mi”を見るか迷っていて、私に説得されて私の映画をみたカップル、
(映画が気に入らなければチケット代とポップコーンはご馳走すると約束したけれど、その必要はなかった。)

人生は少なくともこの1時間半は意義のあるものだったと、お礼をいってくれた私よりもずっとシャイな少年、

この映画に涙を流し、心の中で号泣した人たち:映画の中に一杯につまった、彼らひとりひとりのストーリー、なんでもない普段の暮らし、感動する出来事、生まれてくるストーリーたち、そしてそこから起こる出来事、その所有権は私にはない。それは映画を作った人間。映画を見た人、そして自分のストーリーをそこから創っていく人たちの共有物。

実際の生活と映画の中で作り上げられた現実を、ごちゃ混ぜにしてくれる人たちのおかげで、私はフィクショの力を改めて信じることができるような気がする。

手紙を通して、微笑みを通じて、沈黙を通じて、壊れやすく、やわらかく、瞬間的であり、名づけがたいけれど、でも力強いメッセージは、映画は役に立つものであるということ私に言い聞かせる。

これからは今までと同じ気持ちで撮影に望むことはできない。映画のない人生は私にとって全く違ったものであるにちがいないのだから。

これからどうするかって?
毎朝のように“もう映画決して映画を作るまいと思いながら目覚める。それが事実だとしたら?

映画を作るという私にとっては特権に等しい欲望に見捨てられたと、とっさになって、やっとの思いでたったひとことつぶやいてしまうに違いない。 映画を作ったあと必ず私を駆り立てる、おなじ疑問とおなじ恐れと、おなじ焦り・・・。
しばらくするとその感情は消えてしまう・・・・次の映画を作るまでは。

映画をつくることは、ある種の恐れを忘れさせてくれ、そして、何か新しいものに立ち向かう手助けをしてくれる。
そして現実と欲望の間に深い溝があることにも気づかせてくれる。

もし、テレビ映画から出てきたような政治家だけが存在したとしたら?
スタンレー、キュービックの“Paths to glory”やテレス マリックの“The thin and red line”をダブルフィーチャーしたみたいな。そうすればきっと、きっと争いのない平和な世の中になるだろうけれど。
でもそんな人たちを見ていると、きっと退屈すぎてタイトルクレジットをみながら居眠りしてしまうに違いない・・。

(2003年6月26日:スペイン語原文記事
Para que sirven las peliculas? 翻訳by Totteokiバルセロナ

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